「イ・ゴンヒフォン」SGH-T100、ふたを開けると色があった
2002年春に599ユーロで登場した銀色の折りたたみ式携帯電話は、1年5か月で1,000万台を超えた。ところが、この電話について語られる説明の多くは後から作られたものだ。実際に成し遂げたことと、記憶されている物語の間には隔たりがある。
2002年3月、ドイツのハノーバー。CeBIT初日、Samsungのブースに手のひらほどの銀色の貝殻が置かれていた。閉じた状態では目立たない。楕円形にくぼんだ部分に小さなモノクロ画面があり、角には短いアンテナが付いている。人々が足を止めたのは、ふたを開けたときだった。中には色があった。
名前はSGH-T100。その年の4月から販売され、欧州の価格表には599ユーロと記された。製品そのものの説明は難しくない。検証すべきなのは、世界初の1,000万台達成機だったとか、会長が設計図を直接描いたとか、この電話のおかげでSamsungが世界3位になったという話だ。その多くは製品登場からかなり後に作られた言説である。
カラー画面がまだ高価だった年
2002年初頭の携帯電話市場は、順位表からして今とは違っていた。Gartnerの集計によれば、2001年に世界で3番目に多く携帯電話を販売したのはSiemensで、2,975万3,000台、シェア7.4%だった。Samsungは2,823万4,000台(7.1%)で4位、Ericssonが5位だった。Samsungがすぐに追うべき相手は少し先を行くSiemensで、首位とは距離があった。
ディスプレイ技術もまだ定まっていなかった。カラー液晶はあったが高価で、業界は安価なSTN系と明るいTFTという二つの方式の間でコストを見極めていた。同年、Samsung SDIが推進したUFB-LCDは、TFTと同じ6万5,000色を表示しながら製造コストを30~40%抑えられたが、輝度は170カンデラでTFTの200カンデラより暗かった。色を見るためにどれだけ追加で払う人がいるかが焦点だった。
Samsungは最も明るい画面と最も美しいボディを載せ、最も高い価格を付ける道を選んだ。その選択の背景を見るには、7年前にさかのぼる必要がある。
九尾の運動場で焼かれた15万台
1995年3月9日、Samsung電子の九尾事業場の運動場に従業員約2,000人が集まった。その前には不良品のAnycallや無線端末が約15万台積み上げられていた。当時の時価で500億ウォン相当だった。無線事業部の不良率は12%近くに達していた。山積みの端末に火がつけられ、後に人々はこの場面を「Anycall火刑式」と呼んだ。
会長がその日に何を語ったのかは、媒体によって伝え方が異なる。MoneyTodayは「消費者から金をもらって物を売るのに、不良品を出して申し訳ないと思わないのか」という叱責を掲載した。ZDNetは別の言葉を載せている。「携帯電話の品質に気を配りなさい。顧客が怖くないのか。高い携帯電話が壊れたら誰が買うのか」という発言だ。最も有名な場面の発言でさえ、記録は一致しない。
効果は早かったと記録されている。5か月後の1995年8月、Anycallは国内シェア51.5%でMotorolaを抜いて1位になった。翌年の年頭挨拶で会長は1996年を「デザイン革命の年」と宣言し、1997年にはSamsungが社内の「誇らしいSamsung人賞」にデザイン部門を新設した。宣言が制度として根付いたのだ。
ただし、火刑式の直後にT100が登場したわけではない。その間には7年と複数世代の製品がある。2020年の追悼記事には、1993年に米国Best Buyの店舗でSamsung製品がほこりをかぶっていたという逸話をT100の記事の前に置いたものもあった。二つの出来事には9年の隔たりがあり、当時の記録に両者を結びつけるものはない。隣り合わせに書かれても因果関係が生まれるわけではない。
「小石」と呼ばれた94グラムのボディ
88×50×22mm、94g。数字だけなら平凡だ。角を落とし、側面を丸く膨らませた銀色のボディには、手のひらに角が当たる箇所がなかった。そのため、この製品を説明する人々はまず手触りを語った。「小石」という比喩は2011年の回顧記事にも残っている。流線形の折りたたみ端末が手に持ちやすかったという話だ。

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その形をデザインした人物の名も残っている。Samsung電子の主任デザイナー、Hyun Sang-minだ。2013年のHerald Economy Bizインタビューによれば、「イ・ゴンヒフォン」と呼ばれるSGH-T100をSamsung電子初のミリオンセラー級デザインに仕上げた人物で、2002年に「誇らしいSamsung人賞」を受賞した。1996年の宣言の後、1997年に賞が創設され、2002年にはこの製品のデザイナーが受賞した。設計図の逸話ほど劇的ではないが、こちらには根拠がある。
後年、Samsung Newsroomは、このデザインが広い画面で文章を読みやすくし、小石のような感触を与えたことで、単一モデルとして売上高1兆ウォンを超えたとまとめた。自社製品についての会社の説明なので割り引いて読む必要はあるが、手触りを表した言葉が会社の公式説明にも登場したことは確かだ。
2002年に放送されたSGH-T100のテレビCM原版。
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ふたの内側にある4,096色の画面
この電話の要は、ふたの内側の画面だ。メイン画面は解像度128×160のTFT液晶で4,096色を表示し、一画面に12行を収めた。ふたの外側には3行表示のモノクロサブ画面が別に付いていた。2002年に画面を二つ載せるのは、ぜいたくに近かった。

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カメラも、データ通信のGPRSもEDGEもBluetoothも無線LANもなかった。720mAhのバッテリーで待受時間は60時間、通話時間は80分、電話帳には最大500件を登録できた。今の基準では物足りないが、2002年にこの製品を買う理由は画面と手触りだった。価格もそれに合わせて設定された。
ここで20年間繰り返されてきた誤りを一つ整理しよう。この電話の液晶をUFB-LCDと記す記事が非常に多い。UFB-LCDはSamsungが2002年3月に世界初の開発を発表し、4月19日のプレスリリースで説明したSTN系技術で、同リリースはSCH-X570とSCH-X580を初採用モデルに挙げた。当時の記事は、UFBをTFTと色数は同じだが、暗く安価な代替技術と説明した。T100が使ったTFTは、UFBより明るく高価な方式だ。
「世界初のカラーTFT携帯」という表現にも条件が付く。GSM市場に限った話で、Samsung社内でも初のTFT Anycallはこのモデルではなく、数か月前に登場した別の通信方式の姉妹モデルだったと、当時のMoneyTodayは伝えている。「初」という言葉にはいつも但し書きが付く。それを取り除くと、事実が神話のように固まってしまう。
国ごとに名前が違った電話
この電話には一つではない名前があった。欧州とアジアではSGH-T100、中国ではSGH-T108、米国ではSPH-A500、韓国ではSCH-X430として販売された。世界がGSMとCDMAという異なる通信方式に分かれていた時代には、同じ外装に異なる無線機を入れることがよくあった。
まず輸出モデルの仕様を見よう。Samsungの英語版取扱説明書の表紙は本機を「DUAL BAND GSM TELEPHONE」と記し、ハンガリー語版の認証仕様表にもGSM 900とDCS 1800の二つの周波数帯だけが記載されている。トライバンドではなかったということだ。1900MHzという記述がいつの間にか加わったのは、北米モデルSPH-A500の「Tri-Mode Dual-Band」分類が姉妹機から移されたためとみられる。
北米モデルは名前だけを変えた製品ではない。SPH-A500にはFCC ID A3LSPHA500が付され、公開された2002年の試験報告書の写しにはPCS CDMA試験とともに「Tri-Mode Dual-Band」の分類が残っている。同じ世代の折りたたみ式カラー画面のデザインを共有していても、内部の無線機は異なっていた。米国の消費者が手にした製品名はA500だった。
SGH-T100の広告を28言語版集めて連結したアーカイブ編集映像。
販売台数も名称ごとに分かれている。Samsung電子が2002年11月28日に発表した資料は、同年10月までに欧州205万台、東南アジア55万台、中国50万台、米国(SPH-A500)50万台、韓国90万台、合計450万台を販売したと集計している。米国発売をめぐる混乱はこの表で解ける。Samsung Newsroomは2009年の回顧記事で「2002年4月に欧州とアジアで先行発売し、8月には米国市場にも投入した」とだけ記し、モデル名は明かさなかった。そのため、米国では発売されなかったという話も、会社記録が誤りだという話も広まったが、どちらも正確ではない。国境で変わったのは製品ではなくモデル名だ。ただし「SGH-T100」という名前のまま米国のGSM通信事業者を通じて販売された証拠は、今も見つかっていない。
愛称は2020年に生まれたのではない
次は愛称だ。2020年10月25日と26日、イ・ゴンヒ会長の逝去が伝えられた二日間に、少なくとも10媒体が実質的に同じ文章を掲載した。「会長はこの製品の開発段階から細かくデザインを……」で始まる一文だ。10媒体に同じ文が載ったのは、10回の取材というより、型にはまった説明が一斉に広がった結果に近い。
そのため愛称が2020年に作られたと思いやすいが、そうではない。2007年4月、電子新聞はこの電話をベンツフォン、ブルーブラックフォン、チョコレートフォンとともに「1,000万台クラブ」にまとめ、こうした愛称はメーカーが付けた名ではなく、顧客が付けた呼び名だと説明した。同年3月の世界日報も「イ・ゴンヒフォン」という表記を使っている。ただし、2002年の発売当時の記事にはこの表現が見当たらない。13年以上使われた愛称が、2020年の訃報記事に一斉に現れたのだ。

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では、会長はこの電話にどれほど関わったのだろうか。残っている話の最大限は、デザインに積極的に関与した、開発段階から細かく確認した、普段から愛用し首にかけて持ち歩いた、といったところだ。設計図を直接描いた、具体的な形状を指示したという話は、会社の公式史にもデザイナーのインタビューにも出てこない。2021年には通話・終了ボタンを上部に置くアイデアを出したという話を載せた媒体もあるが、特定モデルではなくAnycall全般についての回顧として伝えられている。そのボタン配置がこの電話の特徴なのは確かだが、会長と結びつける説明は回顧から生まれた。
デザインを語るときはHyun Sang-minの名も一緒に記憶するのが公平だろう。会長の名を冠した愛称で知られる電話だが、2002年に社内の「誇らしいSamsung人賞」を受けたのはデザイナーのHyun Sang-minだった。彼は1996年にSamsung電子に入社し、2000年代後半までモバイル事業部でAnycallの折りたたみシリーズを担当した。
SGH-600が先に1,000万台を売った
数字に戻ろう。発売から6か月で450万台が売れた。2002年12月の報道は年末までに600万台に達すると見込んだ。翌2003年、累計販売台数は1,000万台を超えた。ソウル経済の表現を借りれば、発売から約1年5か月後だった。
そこに「Samsung初」または「世界初」の1,000万台販売モデルという形容が付く。しかし当時の資料とは合わない。東亜日報は2002年11月28日の記事で、1998年のSGH-600がすでに1,000万台を販売していたと記し、今回新しかったのは6か月で450万台という速度だと明確に指摘した。ところが7年後、Samsung Newsroomは回顧記事でSGH-600を省き、T100を1,000万台販売の第1号として紹介した。
したがって、この電話が打ち立てた記録は「初」ではなく「速度」の側にある。会社がまとめた系譜には、T100に続いて2003年下半期のE700ベンツフォン、1・2世代合計1,600万台を販売したブルーブラックフォン、2006年12月のE250、2008年のJ700ドログバフォンが並ぶ。後継モデルはその販売速度を何度も更新した。「発売9か月で600万台」という数字を韓国内販売台数として書いた回顧記事もあるが、2002年11月時点の韓国内販売は90万台で、同じ場で会社が述べた「年末までに600万台」は世界全体の目標だった。
Samsungはこの電話の登場前にすでに3位だった
この電話に最も頻繁に結びつけられる功績は市場順位だ。2008年の回顧記事の一つは、二つの画面と小石のような流線形の折りたたみデザインがSiemensを抜き、SamsungをNokia、Motorolaと並ぶ世界3強に押し上げたと書いた。もっともらしいが、実際の時間順序は逆だ。
Gartnerの集計では、Samsungは2002年第1四半期にすでに3位だった。903万台(9.6%)でSiemensの823万台(8.8%)を上回り、Telecompaperも同四半期の2・3・4位をMotorola、Samsung、Siemensと整理した。T100が販売を始めたのはその年の4月だ。3位になった後に電話が登場したことになる。韓国の回顧記事が二つの出来事を並べて扱ったため、発売のおかげで順位が上がったという誤った因果関係が生まれた。
第2四半期も順位は変わらなかった。RCR WirelessはSamsungを「今や3位のメーカー」と呼んだ。年間でもSamsungの4,168万4,400台(9.8%)はSiemensの3,461万8,000台(8.2%)を上回り、シェアは2001年の7.1%から2002年の9.8%に伸びた。ラインアップ全体が一段上がった結果だった。
関連する誤りもあわせて取り除こう。Samsungが抜いた相手はSony EricssonではなくSiemensだ。Sony Ericssonの合弁会社が設立されたのは2001年10月になってからだった。2002年の販売台数を4,300万台と記した回顧記事もあるが、Gartnerが実売台数として集計した数字は4,168万4,400台だ。3位になった時期も媒体によって2002年第1四半期、上半期、第3四半期、2003年第1四半期と異なる。どの時点を採っても、その順位をこのモデル一つの功績とはみなせない。
1,000万台を売って残ったレビューは二つ
この電話の海外レビューは意外なほど見つけにくい。確認できた2002年当時の評価は、ドイツHeiseの3月13日付CeBIT記事とMobile-review.comの10月のレビューの二つだけだ。GSMArena利用者のコメント3件はいずれも2025~2026年に書かれている。1,000万台を販売した規模を考えると、当時の声はあまり残っていない。
そのうち、最も具体的なMobile-reviewの評価は冷静だ。画面については「T100はカラー画面を備え、うまく実現した初期シリーズのモデル」と認める一方、赤外線、GPRS、MMS、EMSがすべてないことも並べた。機能はシンプルなファッションフォンだが、そのカテゴリーでは優れた代表例だという結論だった。2002年10月時点の欧州小売価格は約450~500ドルだった。
賞や広告はもっと華やかだった。2002年11月7日、Samsung電子はパリのシャルル・ド・ゴール空港への進入路脇に、この電話をかたどった巨大な造形物を設置した。通常の広告物を置きにくい場所だったため造形物を選んだ、というのが会社の説明で、同様の造形物はサンパウロ市街地にも立った。イタリアのファッション誌がUFOを思わせるデザインと評したという紹介や、ドイツのiFデザイン賞最終審査に進んだという話も、同年11月の韓国報道に載った。
広告は国ごとに撮り直された。ポーランド、スペイン、ロシア、チェコを含む少なくとも5か国の現地版が今もYouTubeに残り、その一部はVHS録画を保管していた個人アーカイブから出てきた。後継モデルも同じ路線を進んだ。2006年末に海外で発売されたSGH-E250は、世界で5,000万台を販売したと紹介されている。この電話の5倍だ。
韓国でこの電話が記憶される形
韓国ではこの電話はSCH-X430という名前で2002年4月に発売された。MoneyTodayの発売記事は、液晶を薄膜トランジスタ液晶(TFT-LCD)、着信音を40和音と記し、価格は60万ウォン台と伝えた。同じ記事でSamsung電子の関係者は「当社は今年、カラー携帯電話市場でシェア60%を占め、カラー携帯電話市場でもAnycall神話を続ける計画だ」と語った。60%を目標に掲げる自信は、今読んでも少し恐ろしい。
韓国モデルには輸出仕様表にない機能が加わった。名前を言うと発信する話者独立型音声ダイヤル、交通情報や株価を受信するデータサービス、モバイル決済用の「電子財布」だ。一部の仕様表にはサウンドチップがYamaha YMU762(40和音)と記され、韓国モデルと輸出モデルの部品に違いがあった可能性を示している。同じ仕様表には、2004年1月にSCH-X430Sという後継改良版が登場したともある。

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韓国内市場を見ると、この電話が参入した位置が分かる。2002年2月、韓国内の携帯電話販売約135万台のうちカラー端末は48万台で35.5%を占め、そのうちTFT-LCDは4分の1未満だった。競争はすでに始まっていた。LG電子は2001年末、6万5,000色のSTNカラー端末で国内シェアを30.8%から2002年第1四半期の36.2%まで伸ばしたところだった。LGのTFT新製品は5月ごろ登場予定だったため、4月のSCH-X430は1か月先に市場へ入った。TFTを推すSamsung電子とSTN・UFBを推すSamsung SDIの社内競争もあった。Samsung電子LCD事業部のKim Hyung-geol常務は「今年半ばからTFT-LCD製品の市場シェアが急速に高まるだろう」と述べた。
2002年10月までの韓国内販売は90万台だった。情報通信部のモバイル技術大賞ではデザイン部門の大賞も受賞した。テレビCMにはLee Na-youngとCha Tae-hyunが出演したと伝えられ、この電話を使った人たちも仕様よりCMの歌や水鉄砲の場面を先に思い出す。価格は急速に下がった。iNews24の中古相場連載では2003~2004年を通じて14万~30万ウォン台とされ、2004年1月の記事には16万8,500ウォンで販売中と記された。発売価格の4分の1だ。
20年後にこの電話を取り上げた記事には、実物と異なる説明が載った。2020年10月の追悼記事は「イ・ゴンヒフォン」に31万画素の内蔵カメラと26万2,000色の液晶があると記した。輸出モデルSGH-T100にカメラはなく、表示色は4,096色だ。同じ誤りは少なくとも3媒体で繰り返された。世界初の1,000万台、Sony Ericssonを追い抜いた、4,300万台という説明も同じように広まった。この製品の出発点に最も近い言葉は、発売より6年前の1996年の年頭挨拶にある。
五行で振り返る
2002年3月のCeBIT初日に発表され、4月から欧州で599ユーロで販売された、88×50×22mm・94gの曲面折りたたみ端末。
メイン画面はTFT 4,096色、128×160(12行)。ふたの外側には3行のモノクロ画面があり、カメラ・GPRS・Bluetoothはなかった。UFB-LCDを使った機種ではない。
輸出モデルはGSM 900/1800のデュアルバンド。米国版SPH-A500は個別のFCC文書があるCDMA姉妹モデルだった。
2003年に1,000万台を超えたのは事実だが、最初ではない。当時の記事によると1998年にSGH-600が先に1,000万台を販売し、新しかったのは約1年5か月という速度だった。
Samsungが世界3位になったのは、この電話が登場する前の2002年第1四半期の集計ですでに確認できる。追い抜いた相手はSony EricssonではなくSiemensだった。
「デザインのようなソフトな創造力こそ企業の大切な資産であり、21世紀の企業経営における最後の勝負どころになると確信する」—イ・ゴンヒ、1996年年頭挨拶
モノクロとカラーが混在した2002年、この電話は4,096色のTFT画面と小石のような手触りを武器に1,000万台を超えた。明確な節目である。ただし「世界初の1,000万台販売」も、「Samsungを3位に押し上げた電話」も、「会長が設計図を描いた」という話も、後から付け加えられた説明だ。物語を取り除いてこそ、この製品が実際に成し遂げたことが見えてくる。
参考資料
- 다섯 번째 텐밀리언셀러폰 탄생
- 삼성전자, 新개념 UFB-LCD 채용 컬러 휴대폰 본격 출시
- SGH-T100 User Manual (English, for Europe)
- FCC ID A3LSPHA500 Test Report (Samsung SPH-A500)
- Samsung Phone a Global Hit
- Sprint Touts PCS Vision
- Worldwide mobile phone sales declined 4% in Q1 2002
- Samsung T100 - Full phone specifications
- Samsung SGH-T100 Review
- [人터view] 현상민 삼성전자 수석디자이너 (상)