ウォークマン、最初の1カ月は3,000台しか売れなかった
1979年夏に登場したSonyのウォークマンは、最初の1カ月で3,000台を売った。会社が自ら記録したこの数字とは裏腹に、世間には発売当初から大ヒットだったという話が広まった。命名した人物も、オレンジ色のボタンが消えた時期も、よく知られた話とは異なる。
1979年7月1日、日本の家電店に青と銀をあしらった小さな箱が並んだ。アルミ製の本体は390グラム、単3電池2本で8時間動いた。再生ボタンはあっても録音ボタンはなく、スピーカーもない。音の出口はヘッドホン端子2つだけで、価格は33,000円だった。
7月末までに、その箱はおよそ3,000台売れた。Sonyが公式社史に記した数字だ。初回生産は30,000台だったため、最初の1カ月に売れたのは10分の1にすぎない。英語圏で広まった話は正反対だった。月5,000台を見込んでいたのに、2カ月で50,000台を売り上げたというもので、2009年のTimeの記事が代表例だ。会社自身が初月は売れなかったと記録しているのに、世間では最初から成功した製品として記憶されている。

Yoshikazu TAKADA from Tokyo, Japan · Wikimedia Commons · CC BY 2.0
ウォークマンほど頻繁に引用され、同時に誤って引用される製品も珍しい。販売台数も、名前を付けた人物も、米国に登場した時期も、オレンジ色のボタンが消えた日も、広く知られた話とは違う。この現象を最初に理論化した論文でさえ、冒頭で発売年を誤っている。
1970年代まで、音楽はどこかに座って聴くもので、スピーカーの前を離れれば音も途切れた。持ち運べる機器がなかったわけではない。Sonyが1978年に発売したポータブルステレオテープレコーダーTC-D5は、社史によると重さ1.7kgで、文庫本ほどの大きさだった。持ち上げることはできても、持ち歩きたいと思えるほど軽くはなかった。
Pressmanから録音機能を取り除く
その1.7kgの機器を最もよく持ち歩いていたのは、Sony共同創業者の井深大だった。重くて使いにくいという不満が社内記録に残っている。米国出張を控えたある日、井深は大賀典雄にこう尋ねた。「『Pressman』に再生専用のステレオ回路を入れたものを作れないだろうか」。Pressmanは記者が使うモノラルのカセットレコーダーだった。大賀は依頼をテープレコーダー事業部長の大曽根幸三に引き継ぎ、大曽根は録音機能を外した場所にステレオ再生回路を入れさせた。
改造機を聴いた井深は喜んだ。「小さいのに音がいいじゃないか。本当にいい音を聴くには、音を余さず拾うヘッドホンがいい」。井深は出張にその機器を持って行き、帰国後に盛田昭夫へ見せた。盛田はこう反応した。「確かにスピーカーで聴くのとは違う味がある。しかも持ち歩いて一人でも聴ける。これは面白い」。
1979年2月、盛田は設計・企画・宣伝・デザインを担う若手社員たちの前で改造機を披露した。録音機能を外し、ヘッドホンと組み合わせた再生専用機として売り出せば売れるという考えだった。条件も示した。若者を狙うこと、夏休み前に発売すること、価格を40,000円以下にすること。残された時間は4カ月だった。
4カ月という日程が設計全体を左右した。初号機の設計チームを率いた高篠静雄と大曽根は、テープを回す機構を新しく作らないことにした。コンセプトを試す最初の機械が頻繁に故障すれば、疑われるのは機械ではなくコンセプトだというのが大曽根の考えだった。そこで、すでに500,000台を生産したPressmanの機構をそのまま使った。どのPressmanのモデルだったかは今も見解が分かれる。Sonyの公式記録は型番を記さず、単に「50万台の実績を持つPressman」としている。
50グラムのヘッドホンを組み合わせる
ウォークマンを持ち歩く機器にするには、本体と同じくらいヘッドホンが重要だった。当時の業界で使われていたヘッドホンは300~400グラムで、音を出すドライバーの直径は50mmを超えていた。390グラムの本体に400グラムのヘッドホンをつなげば、歩きながら聴くという発想そのものが成り立たない。
同じ会社の別部門では、すでに軽量ヘッドホンを開発していた。Sony技術研究所のオープンエア型試作品は50グラムで、ドライバー径は23mmだった。業界標準の6分の1から8分の1の重さで、直径も半分に満たず、後に『H·AIR』シリーズへとつながる。両チームは互いの存在を知らなかった。井深と盛田の「一緒にやれ」という一言が両者を結び、1979年3月にチームが合流した。
そのヘッドホンは、そのままTPS-L2に付属した。ヘッドホンの系譜はウォークマンより長く続いた。ここから生まれた小型軽量ヘッドホン技術は、1982年には直径16mmドライバーを使う世界初のインイヤー型ヘッドホンに、1992年には一般消費者向け初のノイズキャンセリングモデルに、そして2017年には完全ワイヤレスモデルにつながる。テープ機器が博物館の収蔵品になった後も、イヤホンは途切れることなく登場した。
名前は広告宣伝部から生まれた
製品より先に、名前が社内の反発を招いた。Sonyの公式記録によると、『Walkman』を考案したのはエンジニアではなく、広告宣伝部の若手社員だった。元になった機種『Pressman』と、当時流行していた映画『Superman』を組み合わせた言葉だ。英語圏のメディアには大曽根幸三が提案したと書くものもあるが、一次記録は異なる。命名したのは広告宣伝部の社員であり、盛田は反対を押し切ってその名を承認したにすぎない。
反対の理由は文法だった。Walkmanは英語ではなく、不自然だというのだ。盛田の返答は短かった。「使うのは若者だ。若者がいいと言うなら、それでいい」。価格も同じ場で決まったという。社史には「今年は33周年だから33,000円にしよう」という盛田の一言で決まった逸話が残る。この金額を「125ドル」と換算した英語記事もあるが、1979年の為替で計算すれば約150ドルだ。
反対は名前だけに限らなかった。社内記録に残る営業部の言葉はこうだ。「テーププレーヤーなんて聞いたことがない。録音機能がないのだから絶対に売れない」。広く語られる「盛田が売れなければ辞任すると宣言した」という場面は、その記録にはない。残っているのは営業部の反対と、盛田が自分の直感を信じたという一文だけだ。
名前は国境を越えると、さらに分かれていった。日本発売から半年後に海外販売が始まると、現地の販売会社はWalkmanは英語ではないとして名前を拒んだとSonyの記録は伝える。そのため米国では『Soundabout』、英国では密航者を意味する『Stowaway』、オーストラリアでは『Freestyle』という名が同時に使われた。今回も盛田が整理役となり、名称を統一する方針は1980年4月の米国セールス会議で発表された。
端子は2つ、ボタンはオレンジ色

Dave Jones from Australia · Wikimedia Commons · CC BY 2.0
TPS-L2にはAとBのヘッドホン端子が2つあり、その横に『ホットライン』というオレンジ色のボタンが付いていた。ヘッドホンを着けた2人が音楽を止めずに会話できる通話ボタンだ。The New York Timesは1999年の発売20周年記事でこのボタンを「パニックボタン」と呼び、後に盛田昭夫が書いた文章を引用した。Sonyは自己中心的に見える製品を出すことをためらっていた、という内容だった。
最も広く流布した誤解は、米国での商品名がSoundaboutからWalkmanに変わった1980年ごろ、オレンジ色のボタンと2つ目の端子も一緒になくなったという話だ。しかし、収集家が保存していた当時の広告を見ると、1980年に米国で販売されたTPS-L2はどちらの名前であっても両方の機能を備えていた。Sonyの米国法人名義で出た1980年の広告は、2つ目のヘッドホン端子と「独自のホットラインボタン」を並べて紹介している。
本体からオレンジ色のボタンがなくなったのは、1981年2月発売の後継機『Walkman II(WM-2)』からだ。通話機能そのものはなくなっていない。付属ヘッドホンMDR-4L1Sのコードが分岐する部分にオレンジ色のミュートボタンが付き、A・Bの2端子は本体に残った。

Birmingham Museums Trust · Wikimedia Commons · CC BY-SA 4.0
通話機能はその後のモデルにも残った。1981年のWM-3には銀色の通話ボタンと内蔵マイクがあり、1982年のWM-R2にはスライド式のホットラインが備わった。どちらもヘッドホン端子は2つだった。機種番号の順序も実際の系譜とは異なる。WM-1は名前に反して、TPS-L2とWM-2の後に登場した3番目のモデル(1981年)で、端子だけが2つあった。
8月に初回生産の30,000台が完売
1979年6月22日、Sonyは銀座ソニービルに記者を集め、バスに乗せた。到着したのは代々木公園だった。説明会も仕様説明もなく、受け取ったばかりの製品の再生スイッチを押すよう求められた。WalkmanのTシャツを着た宣伝部員とアルバイト学生が実演し、製品説明はすべてヘッドホンから流れた。会社の人が前に出て説明する場面のない新製品発表会だった。
それでも、すぐには売れなかった。ヘッドホンを着けて街を歩くこと自体がまだ珍しく、Sonyの社員が自ら街頭に出た。広告宣伝部と国内営業部の社員はWalkmanを着けて山手線に乗り、終日、東京の環状線を回った。日曜日には新宿や銀座の歩行者天国で通行人に声をかけ、高校や大学の催しにも出向いた。この活動を1981年の販促とする資料もあるが、Sonyの記録ではいずれも1979年の発売前後に位置付けている。
流れが変わったのは7月後半だ。Sonyの記録によると、アイドル歌手がWalkmanを使う姿が雑誌に載り、状況が変わった。8月末には初回の30,000台が完売した。その後も数回増産したが、品切れで販売できない店が相次ぐ状態が6カ月続いた。環状線を一日中回った社員より、雑誌のグラビア数枚の方が大きく動かしたようだ。「最初の2カ月で50,000台」という話より、こちらの方がずっと面白い。
発売から2年後に放送されたWalkmanのテレビCM映像
歩く自己、『Walkman Effect』という理論
Walkmanが売れると、学術研究も続いた。1984年、日本の文化研究者・細川周平はCambridge University Pressの学術誌Popular Music第4巻165~180ページに『The Walkman Effect』を発表した。「Walkman Effect(ウォークマン効果)」という言葉はここから生まれた。
細川はWalkmanを機械ではなく、関係性として捉えた。彼が作った『musica mobilis』は、音源が持ち主の身体に載り、ある場所から別の場所へ移動する音楽を指す。街頭音楽家やポータブルラジオがその系譜にあり、Walkmanはその一段階だ。最もよく引用される一節はこうだ。「ウォークマンはその自律性の原因でも結果でもなく、それを呼び起こすのでも実現するのでもない。それは自律性そのもの、より正確には『歩く自己の自律性』である」。
ところが、この論文も発売時期を誤っている。冒頭ではWalkmanが「1980年春」に日本で初めて作られ、販売されたと記している。実際の発売日は1979年7月1日だ。「Walkman Effect」という概念を打ち立てた論文が、肝心の発売時期をほぼ1年誤ったまま、40年以上引用されてきた。
特許は別の人物のものだった
Walkmanの物語で最も扱いにくい人物はSonyの社員ではない。ドイツ生まれの発明家アンドレアス・パベルは、ヘッドホンとベルト、カセットプレーヤー、アンプを組み合わせた個人用ステレオ『Stereobelt』を1977年に欧州で特許出願した。Walkmanより2年早い。ドイツ特許DE 2813000 C2は1982年4月8日に登録された。登録後、Sonyは和解を試みた。The Independentが1996年にドイツ報道を引用して伝えたところでは、争いがさらに3年続いた末、Sonyが150,000マルクを支払って決着した。
和解はドイツだけに限られ、パベルは他の国でも争いを続けた。同じ報道によると、1988年11月に英国で主要な侵害者を相手に18件の令状を取得し、Sonyとの訴訟は1993年に英国特許裁判所まで進んだ。結末は資料によって異なる。訴訟費用でパベルが破産状態に追い込まれたという記録もあれば、英国の裁判所が特許を無効にしたという記録もある。
The Independentによると、1996年3月の控訴審でSonyは、25年間にわたりテープレコーダーが小型化した過程を示す表を提出した。パベルは写真上で小さく見えるだけで、実寸はむしろ大きくなっていたと反論した。オールダス判事はSony側の主張を認めた。そのときパベルは落ち着いてこう語った。「こんな争いが20年も続くとは思わなかった。最初は誰かに1年で済むと言われた。私がドン・キホーテのように日本の産業を征服しようとしていたわけでもないのに」。
Binarysequence · Wikimedia Commons · CC BY-SA 4.0
再び動きがあったのは2003年だ。パベルが残る国でも追加訴訟を予告すると、Sonyは和解に傾き、2004年に両者は秘密保持条項を含む合意に至った。和解金は現在も公表されていない。「The New York Timesが1,000万ドル超と報じた」という文が繰り返し流通しているが、2005年の記事の実際の表現は「8桁台前半の現金補償と、一部Walkman販売分のロイヤルティ」だった。パベル本人は2014年のインタビューで契約上話せないとしつつ、一部の新聞で1,000万ドルを超えたと読んだ、と冗談めかして付け加えた。
4億台の先に残ったもの
Sonyの公式記録によると、初号機から40年目の2019年までに、カセット・CD・MD・メモリー方式を合わせたWalkmanの累計販売台数は4億台を超えた。「2010年3月時点」として引用されることもあるが、基準時点が異なる。Timeが集計した2009年の発売30周年時点では累計2億台だった。
Walkmanの名は別のフォーマットにも付いた。1983年に初代CD Walkman D-50が登場し、MiniDiscとMP3のWalkmanが続いた。しかしSonyは自社独自規格ATRACに固執し、iPodに市場を譲った。機能を削って成功した会社が、今度は独自規格を手放せず市場を失った。米国で最後に発売された再生専用カセットWalkmanは、2002年型WM-FX290だ。
カセットWalkmanの生産終了に際してSonyが制作した回顧映像
その間にTPS-L2は博物館の収蔵品になった。Smithsonian国立米国歴史博物館の記録によると、1987年にSonyの米国法人が寄贈したものだ。この収蔵品が『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の撮影小道具だったという話があるが、寄贈は映画より27年早い。映画でピーター・クイルが持ち歩くWalkmanが青と銀のTPS-L2なのは確かだ。監督のジェームズ・ガンは公開当時のインタビューで、カセットテープを母親と地球をつなぐピーター・クイル唯一の絆として設定したと語った。
ただし、この映画がカセット市場を復活させたという話は分けて考える必要がある。広く引用される「米国のカセットアルバム販売が74%増加」は、TechSpotが伝えた2015年の74,000本から2016年の129,000本への増加を指す。同じ記事は、その年に他のアーティストがカセットを発売したことも理由に挙げている。2014年公開の映画の効果と見るべき数字ではない。サウンドトラック『Awesome Mix Vol. 1』のカセットは2015年、2016年にそれぞれ約4,000本売れ、両年とも米国のカセット販売1位だった。Sonyは2019年の発売40周年記念製品NW-A100TPSに、TPS-L2を模したケースとパッケージ、画面上でカセットが回るアニメーションを収めた。映画記念モデルとして紹介されることがあるが、そうではない。
数字が定着していく仕組み
Walkmanをめぐる誤った話の多くは、悪意なく定着した。正確な話より面白い話の方が伝わりやすく、一度広まった文章が次の記事の根拠になる。米国上陸時期はその一例だ。「1980年6月、Soundaboutの名で初めて米国に入った」という話が長く流通してきた。しかし、1979年12月8日付Billboardの1面は米国発売を「今月」と記し、1980年2月9日付Billboardは製品が「最近、米国市場に導入された」と報じている。米国での定価は199.95ドルだった。

The Chronicle · Wikimedia Commons · Public domain
米国に入った時期が変われば、当時の広告の読み方も変わる。1980年1月17日付のDuke大学新聞14面には、ダラムのオーディオ店がSony『TPS-L2ステレオカセットプレーヤー』を保護ポーチ、ACアダプター、充電式バッテリーパックとセットで249ドルで販売する広告が載っている。以前は、正式発売前に実機が流通していた証拠と読まれていた。正式導入がそれより早かったのなら、残るのは小売店独自のセット価格だけだ。
広告にまつわる別の話もある。1980年8月、ニューヨークのロックフェラーセンターで行われたローラースケーターの販促イベントは、Sony Walkmanのキャンペーンとしてよく引用される。しかしRecord Worldの原文は、Macy'sと共催したのはPanasonicだと記している。その記事ではPanasonic製品もSoundaboutと呼ばれており、混同するのも無理はない。Sonyが1980年に実際に使ったコピーは別にあった。「街に革命が起きている」。ラジオ広告は音楽を一節も流さず、指を鳴らす音、足踏み、ハミングだけでその言葉を読んだ。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の1988年の場面に1979年の機器が登場するのを時代考証の誤りと指摘する文章もある。機器は9年前に発売されていたのだから、長く使われた品として見る方が自然だ。
韓国がWalkmanと出会った経緯
1980年代の韓国では日本製家電は輸入禁止品だった。Walkmanも正規には持ち込めなかった。SBS CNBCが2014年に伝えた税関当局者へのインタビューでは、密輸品の押収リストで日本製の象印炊飯器に続いてSony Walkmanが挙がり、海外居住者が持ち込んだ分を除けばすべて密輸品と言えるほどだったという。1980年代末から1990年代初めのソウル・セウン商店街では、密輸されたWalkmanの本体だけを売り、他の付属品を別売りにする慣行があったとされる。付属イヤホンは形だけ似た安物に替えられ、「ガム電池」と呼ばれたニッケルカドミウム電池と充電器は別に買う必要があった。
国産の対抗製品は1981年5月に登場した。Samsung Electronicsのポータブルカセットプレーヤー『MyMy』で、店頭価格は75,000ウォン。Walkmanより約2年遅かった。広告写真のヘッドホンの形までSony製品に似ており、後に韓国メディアは「Walkmanの偽物」と振り返った。1980年代初めには同種製品を作る国内メーカーが25社まで増えたが、後半にはSamsungの『MyMy』、金星社の『Aha』、大宇の『Yoyo』による三つどもえに整理された。
結局、国産の名前は元祖に勝てなかった。朝鮮日報は2023年の創刊103周年企画で、紙面に載った1983年と1988年のSony『Walkman』広告を再掲した。当時の音楽鑑賞は「家ではLP、外ではWalkman」と分けられ、国産の小型プレーヤーも総称してWalkmanと呼ばれたという回想だった。MyMyを買ってもWalkmanと呼ぶほど、韓国ではこの名がポータブルカセットプレーヤー全体を指す言葉になった。
1979年7月1日に日本で発売、価格は33,000円。録音機能もスピーカーもない再生専用機
Sonyの公式記録では7月末までに3,000台、初回生産の30,000台が完売したのは8月末
『Walkman』の名は広告宣伝部の若手社員が『Pressman』と映画『Superman』を組み合わせて作った
オレンジ色のホットラインボタンは1981年のWM-2でヘッドホンコードへ移り、通話機能は1982年のWM-R2まで残った
2019年までのWalkman累計販売は4億台。先に特許を出願したアンドレアス・パベルとの争いは2004年の合意で終わった
最もよく引用される機械は、最もよく誤って引用される。それでも、この390グラムの箱が実際に成し遂げたことだけは、誰も間違えようがない。――音楽を歩かせたのだ。
Walkman TPS-L2は、録音機能もスピーカーもなく、再生だけを行う機械だった。Sonyの公式記録で、初月の販売台数は3,000台だ。失敗に見えた出足は、雑誌に載ったアイドルの写真数枚で反転し、8月末には初回の30,000台が完売した。その話が伝わるうちに数字や日付、名前が少しずつ食い違ったまま定着した。一次資料に照らすと、この機械が成し遂げたことはより鮮明になる。家の外でも音楽を聴けるようにした功績を誇張する必要はない。
参考資料
- ソニー80周年グループヒストリー 第2部第3章 ウォークマンによる新しい市場の創造
- Sony: Tiny Stereo Player (Billboard, 1979-12-08, 1면·52면)
- Compact Cassette Players Are This Year's Hot Xmas Item (Record World, 1980-12-27, 64면)
- Humming Off Key for Two Decades (The New York Times, 1999)
- An Unlikely Trendsetter Made Earphones a Way of Life (The New York Times, 2005-12-17)
- See you in court (The Independent, 1996-05-18)
- Shuhei Hosokawa, The Walkman Effect, Popular Music vol.4 (1984), pp.165-180
- Sony TPS-L2 "Walkman" Cassette Player (1987.0127.01)
- 밥솥에서 명품까지…세관 압수품 보면 시대 보인다 (2014-09-05)
- Audio cassette sales climbed 74 percent in 2016