値段から決めて作ったゲーム機――ファミコンとNES
1986年秋、ニューヨーク・タイムズ1面がゲーム機市場の復活を報じた。記事に載ったその年の予想販売台数は200万台で、最盛期の4分の1だった。その小さな回復の中心にいたのは、3年前に京都で性能より先に価格を決めて作られたファミコンだ。
1986年9月27日の朝、ニューヨーク・タイムズ1面にアンドリュー・ポラックの記事「VIDEO GAMES, ONCE ZAPPED, IN COMEBACK」が載った。ビデオゲームが戻ってきたという知らせだった。だが、復活を伝える紙面に印刷された数字は心もとなかった。メーカー各社がその年に米国で売れると見込んだゲーム機は200万台。1982年の最盛期には800万台を超えていた。
新しい世代が育った市場
最盛期の4分の1。それが1986年の米国ゲーム機市場に寄せられた期待だった。店頭に戻ってきた機械は米国企業の製品ではない。同じ記事で、Nintendo of Americaのマーケティング担当副社長ロナルド・ジュディは、最初のブームのころにはまだいなかった子どもたちが、今では年ごろになったと話した。
その機械は3年前、京都で作られた。ニューヨーク・タイムズ1面に載るまでには、数か月にわたって決裂と再開を繰り返した交渉、全数回収、そして改名があった。出発点は性能ではなく価格だった。
価格を先に決めて始まった開発
任天堂社長の山内溥が開発責任者の上村雅之に出した指示は、上村の回想によれば一文だけだった。家庭のテレビでアーケードゲームを遊べるようにしろ。仕様書も目標性能もなく、決まっていたのは価格だけだった。その金額については資料ごとに異なる。Eurogamerが伝えた回想では部品を5,000円以下で調達する必要があったとされ、日本語版Wikipediaは本体価格を1万円以下に抑えるよう指示されたと記している。いずれにしても、性能を決めてから価格を合わせる通常の順序とは逆だった。
その価格でカスタムチップを作ろうという会社はなかった。任天堂は画面を描画するグラフィックスチップPPUを引き受ける会社を探し回り、最終的にやってみると答えたのはリコー1社だけだった。
山内が2年以内に300万台を買い取ると保証してチップの価格を下げさせた、という話が最も有名だ。広く流布しているが、確定した事実ではない。出典として挙げられる資料は『ポケモン・ストーリー』65ページの脚注1つだ。山内本人がその保証について、ファミコンブームが生んだ伝説のようだと否定した記録もあるが、根拠は個人のファンサイトだ。
リコー側が交渉で感じた負担は、古い日本のファンアーカイブに残っている。リコーの常務、浅川利文はこう語ったとされる。「任天堂のせいで泣きました。ゲーム機とはいえ立派なコンピューターなのに、その中に入れる半導体チップを2,000円以内に抑えろと言われたのです。」
リコーにも引き受ける理由があった。日本語版Wikipediaによれば、リコーは1981年に大阪府池田市へ75億円を投じて建てたカスタムIC工場を埋められず苦戦しており、ファミコンの受注が入って初めて半導体事業部が4年ぶりに黒字へ戻った。チップ設計も価格が決めた。リコーがZ80ではなくMOS 6502系の別の8ビットチップを提案したのは、ライセンス交渉が長引くリスクを避け、チップ面積が4分の1になって原価を抑えられると見込んだからだ。こうして決まったリコー2A03は8ビットチップで、動作速度は1.79MHzだった。契約がまとまったとき、上村は歓声を上げるより安堵したと振り返る。社長の決定であり、自分は関与していなかったからだ。

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本体に固定されたコントローラー、残った十字キー
価格を先に決めた設計の代償はコントローラーに表れた。2つのパッドはケーブルで本体に固定され、取り外せない。コネクターに費用がかかるためだと上村は説明し、後にこの決定を設計上の心残りに挙げた。コネクターを省けば原価は下がるが、ケーブルが傷むと本体ごと修理に出さなければならない。一方、2人プレイは削れない項目だった。パッドを2つ付けろと指示したのは山内本人だ。1円単位で原価を削った会社が、コントローラーを1つ丸ごと追加した。
2Pパッドに開いた小さなマイク穴は、上村自身のアイデアだった。当時の日本を席巻したカラオケブームを狙った仕掛けだったが、最も有名な使われ方はウィル・ライト制作の『レイド・オン・バンゲリングベイ』だった。思いがけない役目を担った人物もいる。後にマリオを生み出す宮本茂が社内で初めて担当したハードウェアの仕事は、ブロック崩しゲーム機の工業デザインだった。
こうして原価を削る一方、十字キーは残された。リコー2A03とともに、この機械を代表する仕様に数えられる。ジョイスティックが占めていた場所を親指ほどの大きさに縮めたこの方向キーは、3年後に灰色の外観で北米へ出たときもそのままだった。
1983年7月15日、そして全数回収
ファミコンが日本の店頭に並んだ日は、1983年7月15日と記録されている。価格は14,800円。赤い上面と白い本体、前面にカートリッジスロットが1つあり、型番はHVC-001だった。発売初日に並んだソフトは『ドンキーコング』『ドンキーコングJr.』『ポパイ』の3本で、いずれも自社のアーケードゲームからそのまま移植したものだった。

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当時、日本のテレビで放送されたファミコン広告のまとめ。
発売から数か月もしないうちに設計上の欠陥が明らかになった。正常に動かない個体が見つかり、原因はPPUそのものにあった。Eurogamerが伝える不良率は約1%。社員は問題が確認された製品だけを選んで交換する案を出した。100台中99台は正常だった。それでも山内はその案を退け、全数回収を指示した。
日本語版Wikipediaによれば、出荷停止は1983年後半から少なくとも1984年1月末まで続いた。販売できる商品がない間も、店には再入荷を待つ客が押し寄せた。先行きが誰にも分からない時期に、会社は数か月分の販売機会を自ら手放したことになる。上村の回想はさらに具体的だ。大阪の大きな団地に住んでいた彼のもとへ近所の子どもたちがやって来て、ファミコンがテレビに映らないから直してほしいと言ったという。
数か月続いたAtariとの交渉
日本で機械を回収していたその年、任天堂は太平洋の向こうでまったく別の問題に取り組んでいた。山内が描いた条件は、よく知られる北米での販売委託より大胆だった。日本は任天堂が担当し、それ以外の全世界ではAtariが自社ブランドで販売する構想だった。1983年初夏の京都の会議で上村が実機を披露し、6月のシカゴCESで署名する予定だった。
ゲーム史で最もよく引用される場面が、そのシカゴCESだ。Colecoが新型ホームコンピューターADAMで『ドンキーコング』を実演し、家庭用コンピューター版の権利を持っていたAtariは契約違反だと受け止めた。よく知られる話では、交渉はその場で決裂した。
書籍に残された記録は異なる。デビッド・シェフの『Game Over』はColecoの騒動は結局関係なかったと記し、スティーブン・ケントは契約そのものが締結されていなかったと書いている。署名していない契約が、その場で破談になることはない。
交渉は数か月続いた。6月のCES直後にKassar側から荒川へ送られた書簡には、契約破棄だけでなく法的措置も含まれていたとシェフは紹介する。1か月後の7月、AtariはCEOのレイ・カッサーを解任した。9月にはWarnerのマニー・ジェラードのオフィスにAtari、任天堂、Colecoが再び集まり、『ドンキーコング』の権利について妥協点を探った。その場で荒川は、解雇と巨額の四半期損失によってAtariが崩れつつあるのを目の当たりにした。シェフは交渉が終わった理由をColecoではなく、Atari自身の崩壊に求めている。
CESの騒動直後に急きょ開かれたホテルの会議へ、山内は挨拶もせず入ってきてColeco社長のグリーンバーグを日本語で責め立てた。会議後、この交渉の実務を率いたハワード・リンカーンにこう言った。「人を相手にするときは、こう扱わなければならないこともある、リンカーンさん。あの振る舞いをどう思いましたか。」怒りは演技だった。少なくとも本人はその場をパフォーマンスと呼んでいた。
反対側の証言もある。Atariのエンジニアリング担当副社長スティーブ・ブリストウは、2001年のWIREDインタビュー記録で「残念ながら、任天堂のシステムにライセンスを与えないと決めたのは私だった」と述べた。2600事業を続けるという社内判断が、決裂の本質だったという意味だ。結果だけを見れば、任天堂にとっては幸運だった。荒川はこう振り返る。「まさか、私たちが全てを売り渡しかけたなんて信じられますか。そうしていたら、日本の外では誰も任天堂を知らなかったでしょう。」
灰色の箱として作り直されたNES
交渉が終わると、任天堂は自ら販売することにした。米国の小売店はビデオゲームなら扱おうともしなかった。そこで任天堂はまずホームコンピューターとして売り込んだ。1985年1月のCESで発表したのは、Advanced Video System(AVS)というコンセプトだった。小さなブースで荒川が自ら来場者に応対したが、注文は入らず、任天堂はこの構想を取り下げた。
再設計で手を入れたのは性能よりも印象だった。カートリッジを上から差す代わりに前から押し込む方式にして、ビデオテープを入れるVCRのように見せ、本体を灰色に塗った。Atari 2600を思い出させる要素はすべて取り除いた。灰色のケースをデザインしたのはNintendo of Americaのデザイナー、ランス・バーだった。名称からも「ビデオゲーム」を外した。Nintendo Entertainment System。マーケティングマネージャーのゲイル・ティルデンは同じ理由で、カートリッジを「ゲームパック」、本体を「コントロールデッキ」と呼んだ。ゲーム機ではないふりをするゲーム機だった。

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外観を変えると、新たな問題もついてきた。前から押し込む構造に合わせた72ピンZIFコネクター、つまり力を入れずに差し込める端子は、カートリッジを出し入れするたびに押されて接点が傷み、やがて画面が点滅した。カートリッジを抜いて息を吹きかける民間療法が一世代にわたって広まったのはこのためだ。懐かしい記憶と結び付いたその動作は、マーケティングに由来する問題を和らげる方法だった。
さらに箱の横にはロボットを立たせた。横井軍平のR&D1チームが作ったR.O.B.は、リビングルームより店頭を狙った製品だった。1985年の米国玩具業界ではテディ・ラックスピンやトミーのオムニボットのようなロボット玩具が人気で、任天堂はその流行に乗った。ゲーム機は断っても、ロボットなら受け入れるバイヤーがいた。Zapper光線銃をセット販売した理由について、上村の説明はもっと短い。「アメリカ人は銃が好きだから」。2015年のニューヨーク大学での講演で出た言葉だ。

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「ニューヨークから始める」
どこから販売を始めるかについても、計画は一度ひっくり返った。副社長ブルース・ローリーの案は、小さな都市から静かに始めることだった。娘が通訳する席で山内はその案を覆した。「ニューヨークから始める。成功が生まれる場所だから」。
1985年秋、Nintendo of Americaはニュージャージー州ハッケンサックの古い倉庫に作戦本部を置いた。約30人が自らをSWATチームと呼び、小売店に電話をかけた。最初に公式訪問したWoolworthの返答は短かった。「うちでは扱わない」。Toys R Usではバイヤーがためらったが、上席副社長のハワード・ムーアは「だから私が上席副社長なのだ」と言って導入を押し進めた。Mental Flossが伝えた回想では、小売店への卸値は98ドルだった。
売り場を得た後は、人を集める必要があった。ニューヨーク・メッツのムーキー・ウィルソンとロン・ダーリングが店頭デモに参加し、客と『ベースボール』で対戦した。1985年10月18日、NESはこうして1都市だけで販売を始めた。業界誌『Computer Entertainer』1985年10月号の販売店一覧にはF.A.O. Schwarzも載っている。ただし、よく伝えられる5番街のショーウィンドー単独展示まで、この一覧が証明しているわけではない。
初期出荷は数万台規模とされ、その年のクリスマスまでに売れた台数については記録が食い違う。ローリーは目標の5万台を超えたと記憶し、ニューヨーク・タイムズが引用した数字は9万台だったが、マーケティングを担当したゲイル・ティルデンはその数字を宣伝上の誇張ではないかと疑った。1986年2月にはロサンゼルスなど大都市へ販売が広がり、北米全域での発売はその年の秋になってからだった。
値札に残った数字
この機械の価格として長く引用されてきた数字は179.99ドルだ。当時の雑誌には別の数字が残っている。『Computer Entertainer』1985年10月号の「Nintendo On Schedule」は、本体、コントローラー2個、R.O.B.、『Gyromite』、Zapper、『Duck Hunt』を含むニューヨーク発売セットの希望小売価格を159.95ドルと伝えている。
そのデラックスセットも最初から内容が固定されていたわけではない。同記事によれば、1985年6月のCESで発表された当初の構成はもっと小さく、10月にR.O.B.とZapperのセットが加わった。180ドルという数字に最も近い根拠は発売前の予想だ。『The Milwaukee Journal』1985年10月5日付でエドワード・J・センラッドは、全体のパッケージは「180ドル未満で販売される」と書いた。上限を示した文が、いつしか実売価格として定着した。
実際の店頭広告はそれより安かった。『Newsday』1985年12月16日付のToys R Us広告は139.97ドル、『Daily News』12月12日付のThe Wiz広告は139ドルだった。基本セットはJCPenneyが149.99ドル、Macy'sが160ドル。したがって発売日の販売価格を1つの数字に決めるのは難しい。希望小売価格は159.95ドルで、実際の広告価格は店舗やセット内容によって139~160ドルの間を動いた。複数あった価格は、時がたつと1つの数字として記憶されることがある。
マリオ、ディスク、そして6,191万台
ソフトウェアがハードウェアを売ることを最も鮮明に示したゲームは、1985年9月13日に日本で発売された。英語版Wikipediaがまとめた数字では、『スーパーマリオブラザーズ』は発売初月だけで日本で約120万本を売り、オリジナルのカートリッジ版は最終的に約4,000万本を販売した。ただし順序を逆に記憶しやすい。Polygonのインタビューで上村は、マリオが登場する前からファミコンは日本で約300万台売れていたと振り返る。マリオはすでに普及していたファミコンの上で大きく成功した。
任天堂はカートリッジに続く媒体としてディスクを試みた。英語版・日本語版Wikipediaによれば、1986年2月21日に発売されたファミリーコンピュータ ディスクシステムは15,000円で、両面112KBのディスクカードを使った。玩具店に設置されたディスクライターで500円を払うと、手持ちのディスクに別のゲームを上書きしてもらえた。最終販売台数は約440万台で、史上最も成功したゲーム機周辺機器の1つに数えられる。ディスクの書き換えサービスは2003年まで続いた。

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この時代のソフトウェアには、後に再び注目される名前もある。初代ファミコンとNESの『Golf』をプログラムしたのは、後に任天堂社長となる岩田聡だ。任天堂の公式インタビューで島村がそのゲームに触れると、岩田はこう答えた。「はい。私がプログラムしてました(笑)。」当時、彼は任天堂の社員ではなかった。1982年ごろHAL研究所に入った、受託開発会社のプログラマーだった。1999年のインタビューで彼は、限られたメモリにコースデータを収めるため、自分で圧縮方式を考案したと振り返っている。価格から決まった機械では、ソフトウェアも限られたメモリに合わせて作らなければならなかった。
任天堂は今も投資家向けの公式資料であるIR資料に、ファミコンとNESを合わせてハードウェア6,191万台、ソフトウェア5億1万本と掲載している。更新はすでに止まった数字だ。
「コンボイ」という名前
この機械が韓国に正規輸入されたのは、日本での発売から6年後の1989年だ。家庭用ゲーム機という製品は、それ以前に大宇電子が1984年からMSX規格を基に作って販売したZemmixシリーズが先に紹介していた。名前もすでに別会社が使っていた。ゲーム東亜によれば、金星は任天堂とは無関係の自社製8ビットホームコンピューターを「金星ファミコン」の名で販売した。1989年、サムスン電子はセガと組んで「ゲムボーイ」を、現代電子は任天堂と組んで「コンボイ」を発売した。
韓国に入ったのは北米版NESだった。当時の日本大衆文化輸入禁止措置が背景にあり、この規制は1998年から解かれ始めた。灰色の箱が韓国へ来た理由は好みではなく制度だった。米国の小売店を説得するために変えた外観は、太平洋をもう一度越え、まったく別の理由で役立つことになった。
コンボイを黒い本体として記憶する人は多いが、記録に残る違いは本体色ではなくロゴの印刷だ。オリジナルNESが赤い文字で製品名を印刷した場所に、コンボイは黒い文字で自分の名を載せた。ナムウィキによれば型番はHGM-2000で、Zapperはオレンジ色。本体底面のラベルには「任天堂株式会社」という漢字表記と国内の消費者保護センターの電話番号が記されていた。正規品であることを別途証明しなければならない市場だった。価格は139,000ウォン。ゲーム東亜によれば、1989年の労働者平均賃金は月540,000ウォンだったため、週給に相当する。子どもがねだるには、親の1週間分の給料だった。
正規品が発売されても、コピー製品はなくならなかった。ヘテやヨンシル業など韓国企業が作ったファミコン互換機、いわゆるファミクローンはその後も売られ続けた。名前が残っているものだけでも、キーボード付きのLittlecom 2、カメの形をしたTurtlemon、最も多く売れたとされる「アッパ ゲイムヘ!」、韓国グッドデザイン賞を受賞したヘテ電子のSuper Comがある。プレシアンのコラムによれば、1991年に韓国で販売された約115万台のゲーム機のうち60万台がコピー製品で、サムスンと現代の正規品は10万~20万台にとどまった。
別の迂回路もあった。大宇ZemmixやIQ-2000などのMSXコンピューターに挿すとファミコンカートリッジを動かせる拡張カード「ファミリーカード」が販売され、製造元の1社がZeminaだった。Zeminaは海外ゲームを無断コピーし、起動画面のメーカー名を自社ロゴに差し替える手口で悪名高かった。『スーパーマリオブラザーズ』を「兄弟の冒険」という名前で再流通させたのが代表例とされる。4,000万本売れたゲームも、ここでは別の名前を付けられた。この時代の中心地として清渓川を思い浮かべがちだが、淑明女子大学新聞によれば、世運商街の商人は1988年のソウル五輪に合わせて龍山電子商街へ移った。1989年の中心はすでに龍山だった可能性が高い。
現代コンボイの韓国国内向けテレビ広告。放送年は明らかでない。
広告も残っている。シン・ヘチョルがコンボイの広告に出演したとよく言われるが、正確には姿を見せず、CMソングをラップで歌っただけだった。1993年の広告という点は一致するものの、8ビットの現代コンボイか16ビットのスーパーコンボイかは出典によって異なる。コンボイの名は8ビットで終わらなかった。現代電子は1992年10月に16ビットのスーパーコンボイを約199,000ウォンで発売し、それより前の1991年5月には携帯型のミニコンボイを投入した。大企業のライセンス1つの背後には、それだけの卸売業者、コピー業者、雑誌が連なっていた。
性能より先に価格を決めて作った機械だ――コネクター代を節約するため、コントローラーを本体に固定した。
PPUの欠陥が分かると、山内は不良品だけを交換する案を退け、全数回収を選んだ。
Atariとの交渉は1983年6月から9月まで続いて終わり、契約書に署名したことはなかった。
ニューヨーク発売セットの希望小売価格は159.95ドル、店頭広告は139~160ドルだった。
ファミコンとNESの累計6,191万台――任天堂IRに今もそのまま掲載されている数字だ。
価格から逆算して設計された箱が、1つの産業をよみがえらせた。奇跡ではない。静かに食い違った契約と、その間を歩き続けた人々が成し遂げたことだ。
価格を先に決めて設計した14,800円のファミコンに不具合が見つかると、任天堂は損失を受け入れて全数回収を選んだ。数か月にわたるAtariとの交渉が終わった後、任天堂は箱を灰色に変え、ニューヨークの1都市で販売を再開した。その灰色の箱は1989年、「コンボイ」の名で韓国にも入った。ファミコンとNESを合わせた累計販売台数は、最終的に6,191万台に達した。
参考資料
- Game Over: How Nintendo Conquered The World (David Sheff)
- The Ultimate History of Video Games: Revisited (Steven L. Kent)
- Computer Entertainer, Vol.4 No.7 (1985년 10월호) 13쪽 「Nintendo On Schedule」
- The NES Launch Collection (토이저러스·The Wiz·JCPenney·메이시스 광고 스캔 모음)
- The Milwaukee Journal 1985-10-05 「New Nintendo system way ahead of the field」(Edward J. Semrad) 스캔
- Video Games, Once Zapped, In Comeback
- The Man Who Made The NES
- The Famicom's Creator Reflects On 30 Years Of 8-Bit Bliss
- An Insider's Memories Of Making The Nintendo Entertainment System
- 2001년 비디오게임 구술사 — 스티브 브리스토 인터뷰(표제 미확인)
- How Nintendo Conquered Manhattan in 1985
- The Nintendo Entertainment System, page 2
- 岩田さんに聞きました『Wii Sports』Vol.4 (공식 인터뷰)
- Consolidated Sales Units of Hardware and Software
- 패밀리컴퓨터
- 국내 패미클론·해적판 브랜드 정리(표제 미확인)
- 현대 컴보이·슈퍼컴보이 가격·출시 정리(표제 미확인)
- 한국 게임기 시장·패미클론·일본문화 수입금지 칼럼(표제 미확인)
- 1989년 삼성 겜보이·현대 컴보이 출시 회고(표제 미확인)
- 용산역사박물관 특별전 '접속, 용산전자상가'와 패미클론 전시(표제 미확인)
- 1993년 신해철 슈퍼컴보이 광고 관련 기사(표제 미확인)
- ファミリーコンピュータ (Family Computer)